ブルゴーニュワインの感想 改めて、テーマ見直し中

     このブログと私は行き先不明です

ワインの好みについて4

では、樽のきいたものを飲みたくないか?と言われると、飲みたいと答えてしまします。

樽のきいたワインはある種、クラシックであり、たまにそれを確認して、現在地を知りたい、昔の生産者の意図を再確認したいと思っています。なので、それは好みではないのですが、飲みたいです。特に、ラフォンやルロワなど優れた生産者のワインについては、飲む意義があります。

 

とはいえ、もう買えないので、出会えたら、アリガタヤアリガタヤと拝んで飲むわけです。

ワインとは誰と飲むかが重要である

なーんていうのは、一般消費者であるならばOKであるが、品質にこだわる人が行ってはいけません。

「ワインとは誰と飲むかが重要である」というシチュエーションは、男一人暮らしで、ワインが趣味でもなく、一人で夕食を食べる前、後に晩酌する、そんな時、ひとりで高級ワインを飲むよりも近所の気心の知れた人や、遠方から訪ねてきてくれた旧知の友人とかわす安酒のほうが嬉しい・・・・、そんな状況であると察します。それは、高級料亭よりも素人でもちょっと手を加えてくれた料理のほうが心温まる、そんな状況です。

そのような心理は人として正しいありようです。
しかしながら、それとワインの趣味を一緒にしてはいけません。
ワインの趣味というのは、ワインの品質と個性とワインのあるべき姿に向かい合う取り組みです。そんな世界において、ハートウォーミングなものは介在しません(言い過ぎたかもしれませんが、決して主流ではありません)。漫画のように、ワインで人と人の円をつなぐ、ワインで人の悩みを解決する、そんなものは、断じてワインの趣味ではありません。

また販売業者が、「ワインとは誰と飲むかが重要である」なんていうのは、生産者に失礼です。また、高いワインを買わせた人にも意味不明です。高いワインなんて売らなければいいではないですか!(ハートウォーミングな儲け主義なのでしょうか?)

 

ワインが趣味でない人や、販売に関わる人であれば、はっきりと、

「ワインは誰と飲むかが重要ではない側面がある」

と言わなければなりません。また残酷ですが、

「ワインは誰にでも門戸を開いているものではなく、分からない人はお金の無駄なので高いワインを買う意味はないでしょう」

といえます。

 

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ワインの好みについて3

ここ数年でブルゴーニュが特に変わったのは(2010年頃から顕著に)、
タンニンの在り様と思います。それ以前は、タンニンが強く抽出され、
例えば、ロベールシヴィニョン、アンリグージュなどは、タンニンがシルキーに
なっており、昔の「ザ・ニュイサンジョルジュ」ではなくなっています。
またロベールシルグなども先代と比べて、葡萄のタンニンがこなれてきています。(が、あの作り方はジャイエ流の直系で、樽のタンニンを使いすぎており、邪道です。またトップキュベとそれ以外が全く違う造りで、評論家の高い評価をうけるグランエシェゾーとそれ以外が全く違うのは、グランエシェゾーが行き渡らない消費者には詐欺といえます。それをビジネスと割り切ってやっているシルグとなります。)

また、白ワインに目を向けても、90年代のムルソーのように、ガンガンにタンニンを利かす生産者も見られなくなってきています。

 

以前(10年くらい前でしょうか)は樽がきいていることイコール高級ワインという図式があり、猫も杓子も樽を利かせていました。それがいま、控えめになってきており、ブルゴーニュでも新樽を使わないことを売りにする人もちらほらといるような気がします。(あれ、いなかったかな。)

なので、時代の嗜好と自分の嗜好はあっている状況にあります。
しかし、ポンソや一部のシャンパーニュを飲むと、やっぱり、新樽は要らないな・・・と思うのです。

 

赤で美味しい産地というのは、タンニンが土壌の泥の成分と結びついてえぐくならない産地である、と最近思うのです。ブルゴーニュであれば、ニュイサンジョルジュのプルミエクリュ、ヴォーヌロマネ(リッシュブール、フラジェエシェゾー除く)、シャンボール、クロドラロッシュ、ジュヴレシャンベルタン(シャンベルタン側の丘)がそれに該当すると思います。シャンパーニュで美味しいピノノワールができる土地は自分は知りません。ぜひ巡り合いたいです。

好みのワインについて2

2003年のコシュデュリACブルゴーニュを飲んでいる(処理している)のですが、樽樽しています。樽の意義は、

1.木の香りを移すこと

2.ゆっくりと酸素を供給すること、

3.木のタンニンを添加すること、

と思います。1の香りへの作用はNGとはいいませんが、例えば昔ワインに香草を入れて飲んでいました。今の我々の感覚からするとかなり特殊に感じられます。多分、オールドファッションであり、今はその感覚からワイン自体の味わいを楽しむ方向に向かっているのだと思います。樽の香りは慣れ親しんでいるので違和感はないかもしれませんが、これも「ハーブ・香草の香りの添加」と同じです。ワイン本来の味わいにより向かうなら、避けたいです。

2はどうせ瓶内熟成とともに酸化していくのであれば、わざわざ樽で酸化させなくてもいいのでは?と思います。

3のタンニンは、葡萄本来のタンニンとは異なります。これは1と同じく、ワイン自体の味わいの追求に邪魔になります。しかし、赤ワインと異なる白ワインなら、果皮のタンニンが無いが故に木のタンニンも”補う”という点でありなのかもしれません。

しかしワインにタンニンは必要ない、ちゃんというと、タンニンはそれほどなくていいと自分の好みとしては思っています。ブルゴーニュ赤もタンニンは要らない(少量でいい)と思っています。

 

眠いのでつづく

好みのワインについて

これから書くことはワインの優劣ではく、私的な好みについて頭の整理に綴ってみようと思います。それを判断する情報はすべてを見通したものではなく、精々狭いワインの経験に過ぎず、一般化することなどおこがましいと思っています。また、言わせてもらうなら、自分が知っているのは精々30年間程度のヴィンテージをつまみながら知っているのみであり、それより過去はもちろん、未来にわたる時系列も網羅できていない。

 

個人的にはブルゴーニュというとコートドールのコート・ド・ニュイを指しています。あまりボーヌは好みではないようです。ボーヌはニュイに比べ緩く酸の低いワインが多いと思います。これは緯度が低いので当然といえば当然です。ボーヌのピノノワールなどトンと飲んでいないです。唯一のめてアロースからラドワの上部中部でしょうか。先日ブノワライエのノンドゼのシャンパーニュピノノワール90、シャルドネ10を飲んでいたのですが、どうもあまり好きではない。ヴェルズネイのピノノワールも好きではないです。ヴェルズネイは肥沃な粘土の土壌で力強い特徴があります。また粘土特有の苦みがあります。

どうも、ピノとこの粘土の組み合わせが好きではないようなのです。ですので、コルトンの上部の粘土質ではない土壌であれば、ピノが好きなのようなのです。

またジュヴレのシャンベルタン側の丘も上部が結構好きです。味わいは単純ですが、ぬけが良く酸が綺麗です。ここはプレモー石灰岩になります。プレモーといえばニュイサンジョルジュです。そうです。ニュイサンジョルジュも上部はこのシャンベルタン側の丘の上部と同じ個性で、類似の味わいです。

話はボーヌに戻って、であれば、シャルドネならいいのではないかとなるのですが、これもいかがなものでしょうか。個別にみると複雑怪奇な話になりとめどなくなるため、ボーヌのシャルドネとは何か?何を目指すものか?どうあるべきなのか?とラヴァル博士など歴史的に見られていたのかを考えると、それはヒエラルキの頂点であるモンラッシェこそがボーヌを代表するシャルドネなのでしょう。

そう考えると、モンラッシェが好ましいワインなのかが問いなのですが、個人的には重すぎ酸が不足していると感じます。酸が不足しているにもかかわらず、樽が強くきかされているが故に、より酸化しており、よいとは思えません。また樽香も好きではないです。

モンラッシェを頂点とするボーヌそしてシャブリは、アペラシオンの思想=なにを好ましいと考えるかが、自分には合致しません。探せば至れるのでしょうが、まだ巡り合っていません。そういえば、この前飲んだポンソの11年アリゴテは美味しかったです。あれはあまり樽が聞いていなかったように思います。

樽がきいていない白ワインがいいと最近思うようになりました。それは、ジョルジュラヴァルやマルゲを飲んでです。どこにも新樽か否か書いてありませんが、多分違うと思うのです。白に樽香はいらない、繊細であるべきだとますます思うようになってきました。

また、赤も同じく、樽をきかせるのは本来の香りを邪魔するのでやめてほしいと、ポンソやトルショーを飲んで思います。ジャイエの果梗のタンニンは取り除き、人工の樽のタンニンを(新樽を)利かせるというのは、人工的な考えであり、テロワリストではないです。ジャイエは近代の科学者です。そういうワインはいりません。

 

なので、赤白問わず次のようなワインを避けたいです。

・樽が主張している

・粘土とタンニンが絡まり、エグイ。

ダヴィッド・レクラパール

ラルテストを抜栓。ラマトゥール(愛好家) とは違い、軽やかでエレガントで引っかからない。あまりの飲みやすさに、感想が記憶に残らないので、再度飲んでから書かせてもらいます。

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