ブルゴーニュワインの感想 改めて、テーマ見直し中

     このブログと私は行き先不明です

workout!

これまで、3日で1本のワインを飲み、コーヒー1日三杯飲んでいましたが、アルコールとコーヒーを断ってみつて、一週間が立ちましたが、すこぶる快適です。

空いた時間はworkoutと水泳と英語に充当して、成長のため毎日21時に就寝です。

子供のころに帰ったようで、楽しいです。
いつまでやるか分かりませんが、あと1週間はやってみたいです。

champagne製法

何故イタリアなど南の地域でchampagne製法をすると不味いかというと、champagne製法では瓶内二次発酵する際に糖を入れて発酵するため、確か1度程度上がる訳で、一次発酵時点で11度程度にある必要があらます。そうすると南の地域では早積みをする訳でブドウの成熟が足りません。

だとしたら、15度のワインを作って、30%水等を入れればいいと思います。
ワインは味が濃いので、全然OKです。

私は自動車を運転することが好きです。
車両は、軽トラや乗用車やスポーツカー、それぞれ面白いと思います。どれがいいというものはないです。また、乗り心地が良いものは好きですが、それは運転する楽しみとは違う楽しみで、分けて考えると、こうなります: 整備不良のクルマでも、工夫して乗れるなら、楽しいと。

なので、私は自動車を運転することが好きですが、自動車をどれが特別等の想いはありません。例えると、筋トレで鉄棒をするのが好きな人が、鉄棒愛好家にはならないのと同じです。

クルマ好きという人種は、私からみて、運転が好きには見えなく、主要目的から外れた無駄の極みに映ります。
丁度、バイオリンが弾けない、バイオリン収集家のように。


ワインコレクターも同じです。
特徴は、
収集癖がある
スペック好き
取り巻く物語が好き


ワインを飲み理解することが好きな人の名称が浮かびません。何故でしょうか?

権威主義

日本でワインブームを生み出すには、
・イベントにする
・権威が認め、良し悪しを個人に判断させない
・周りの人がやっている
を満たすことと、考えた。

うーん。
そんな消費は来て欲しくないですね。

仕事では顕著に思うのは、権威がお墨付きを与えたか、に中間管理職はこだわります。判断したくない、してはいけないのでしょう。

ワインでも、ブランドモノに文句をいうと怒られるのは、せっかく判断しなくてよい状況になっているのに、そうでなくなるのが、嫌なのでしょう。


そのように、権威主義なのですが、であれば、ワインこそ、権威が構築された世界なので、かつ、お金を払えば、権威に準じれる訳ですから、いいはずなのですが、イマイチ冴えません。歌舞伎のような立ち位置です。

一つに、多数の消費者にとって選択肢が多いこと。
二つ目に、多数の消費者にとって、好みではないことが分かっている。
ためだと思います。

一つ目について、選べるよう教育すれば良い、掲示すれば良い、と考えるのは、頭がよく自我のある人間の発想です。多数派は小学生低学年程度のB層なのですからそんなことは出来ません。
二つ目をクリアするために、マリアージュが考えられたのでは?と見ています。しかしマリアージュは決定的にいけません。ワインと食事を合わせるのは、高度な活動です。そんなことは出来ません。ビールに負けます。

自然派so2を入れない、これは上記1をクリアする分かりやすい商法ですが、不味いため、2で見放されます。

日本ワインも、同じく不味いので、駄目です。

私なら、こうします。
1ー分かりやすさ
フランス産 自然派のブドウ由来
のみとします。
2-美味しさ
甘くします。
だれるので、炭酸を入れます。

あとは適当に物語をつけ、社会的な正当化を図り、メディアに載せます。限定にするのもいいですね。


多分それは、我々既存のワイン愛好家の知るワインではなく、新ジャンルのワインになるでしょう。文化が広まり、世俗化するという現象だと思います。

追記
炭酸としましたが、アイスにする、冷たくする、などもいいですね。ビールが不味いのにバカスカ飲まれるのは、冷やしてあるからです。
キンキンに冷えたビールというコピーは、冷えていないビールはビールではないと刷り込むことで、大手メーカーのビールは不味くない、不味いのはぬるいビールを出した店、とすり替えられています。
また、ビールは喉越しで味わうとしたのもいいですね。
舌で味わうと不味いのがバレますからね。
あと、ビールは大人の味としたのも素晴らしい。万が一、不味いと分かっても、子どもだな!と思われるため、言えません。
ビールの販売戦略は、これまでの時代にマッチしていました。


願わくば、その呪縛から逃れ、不味いものに気づいて欲しいです。少しずつ味覚を取り戻し、普通に作られた食べ物を好むようになって欲しいです。
旧ジャンルのワインはそのためのひとつの指標として、存続してもらえれば嬉しいです。

身体的ピークと技術的な成熟

進学校の中学私立に入学するには、という話を聞いた。それには数学の計算スピードと精度を上げる必要があり、例えば、3.14ではなく、更に多くの桁を覚えるらしいです。自分が小学生でやる立場になったら、いやだろうと思う。

どれだけ桁数を増やしても、円周率にはならない。近似精度を上げているだけであり、近似図形の詳細化に過ぎない。

小学生の理解のためなら、3でも4でも、別によい。
むしろ3が計算しやすくよい。3.15でもいい。

桁数を増やす必要に迫られるのは、工学的な要求であるが、それは算数や数学ではないだろう。

受験テストが回答テクニックに走り、数学ではなくなっている。3行3列以上の計算を紙でやるなら計算スピードがあったほうが便利でいいが、他人に勝つためなんて別に。

また、先取りで学ぶことをしている。
人生はその人の知能の成熟と問題意識に合わせて進むべきと思う。
ノイマンが、小学生で微分積分をやるのは、知能が高く、彼にとって適切な時期だったのであろう。周りが急がせるのはやめては?
なにより人生は長いので、ゆっくりやっていい。

今思えば、小学生の頃は楽しかったので6年と言わず、8〜10年やってもいいと思う。授業もその分濃度を上げてやりたい人はやり込めるようにすれば良い。

水泳を40になって、やり始めたのですが、習熟度が限りなく低いものは、学ぶことが多く、やりがいがあって面白いです。そういう楽しみを先取りするのはもったいないです。

特にスポーツなど、競わせる場合には、身体的ピークに、技術的ピークを合わせるように、トレーニングを積みます。そういうことをすると怪我をしがちですし、いやになります。スポーツで根性論が存在するのは、無理をしているからです。

人生の幸せを得るなら、技術的ピークは後の方が、長く楽しめ、お得です。

受験も競争させるスポーツになっているのでしょう。


エリートアスリートをアイドルにしていますが、そういうのに子供は感化されやすいので、アスリートを神格化している風潮は、競争を劇化させます。

この前ラグビーがあったようですが、ラグビーをやっていない一般人や芸能人が感動をありがとうって、ラグビーの業界にいない人は関係ないでしょう。自分がラグビーをやっていて、日本人が高いパフォーマンスを出せたとき、じゃあ自分もできるかも!?というような理由ならわかりますが。

また、女性には、過酷なスポーツのトレーニングはよろしくないです。

ラグビーもサッカーWカップも、オリンピックや函館駅伝や甲子園などで、競争心を煽り、結果、教育がスポーツになっているならば、見直しが必要です。

"スポーツ"をしたい人を止めることは、それも個人の意思を侵害することとなり、すべきでは無いのですが、それらを報道する際に、善のラベルを貼ることをやめることや、部活をやって内申点をつける=報酬を与えることから着手していくのは如何かと思います。

身体的ピークと技術的な成熟

進学校の中学私立に入学するには、という話を聞いた。それには数学の計算スピードと精度を上げる必要があり、例えば、3.14ではなく、更に多くの桁を覚えるらしいです。自分が小学生でやる立場になったら、いやだろうと思う。

どれだけ桁数を増やしても、円周率にはならない。近似精度を上げているだけであり、近似図形の詳細化に過ぎない。

小学生の理解のためなら、3でも4でも、別によい。
むしろ3が計算しやすくよい。3.15でもいい。

桁数を増やす必要に迫られるのは、工学的な要求であるが、それは算数や数学ではないだろう。

受験テストが回答テクニックに走り、数学ではなくなっている。3行3列以上の計算を紙でやるなら計算スピードがあったほうが便利でいいが、他人に勝つためなんて別に。

また、先取りで学ぶことをしている。
人生はその人の知能の成熟と問題意識に合わせて進むべきと思う。
ノイマンが、小学生で微分積分をやるのは、知能が高く、彼にとって適切な時期だったのであろう。周りが急がせるのはやめては?
なにより人生は長いので、ゆっくりやっていい。

今思えば、小学生の頃は楽しかったので6年と言わず、8〜10年やってもいいと思う。授業もその分濃度を上げてやりたい人はやり込めるようにすれば良い。

水泳を40になって、やり始めたのですが、習熟度が限りなく低いものは、学ぶことが多く、やりがいがあって面白いです。そういう楽しみを先取りするのはもったいないです。

特にスポーツなど、競わせる場合には、身体的ピークに、技術的ピークを合わせるように、トレーニングを積みます。そういうことをすると怪我をしがちですし、いやになります。スポーツで根性論が存在するのは、無理をしているからです。

人生の幸せを得るなら、技術的ピークは後の方が、長く楽しめ、お得です。

受験も競争させるスポーツになっているのでしょう。


エリートアスリートをアイドルにしていますが、そういうのに子供は感化されやすいので、アスリートを神格化している風潮は、競争を劇化させます。

この前ラグビーがあったようですが、ラグビーをやっていない一般人や芸能人が感動をありがとうって、ラグビーの業界にいない人は関係ないでしょう。自分がラグビーをやっていて、日本人が高いパフォーマンスを出せたとき、じゃあ自分もできるかも!?というような理由ならわかりますが。

また、女性には、過酷なスポーツのトレーニングはよろしくないです。

ラグビーもサッカーWカップも、オリンピックや函館駅伝や甲子園などで、競争心を煽り、結果、教育がスポーツになっているならば、見直しが必要です。

"スポーツ"をしたい人を止めることは、それも個人の意思を侵害することとなり、すべきでは無いのですが、それらを報道する際に、善のラベルを貼ることをやめることや、部活をやって内申点をつける=報酬を与えることから着手していくのは如何かと思います。

オスピス・ド・ボーヌ

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1979コルトン
は素晴らしい品質でした。
薄く、淡く、ありつつも、構造、細部までの書き込みと、均一に大きく緩やかに広がり外部との境界線が淡くグラデーションになっている。
それは兎にも角にも、いまだはっきりとした酸が構造を支えてくれていることに起因している。

ヴィンテージは古いが、さも、近年作られたワインのようである。逆説的にいえば、近年のワインの醸造技術の進化の素晴らしさに想いを馳せる。

交換不可能

愛着は誰しもあり、ヘタれてきた歯ブラシですら、愛着がある。しかし、新しい歯ブラシに変えたあと、あの歯ブラシが、とはならない。むしろその快適さに喜びを感じるようでもある。

また、「いつも同じイスに座りたい」「同じプールのシャワーを使いたい」とこだわるのも似ている。

機能ではなく、同じ機能を有するものでも、異なるとする心である。


ワインにおいて、自宅のセラーにあったワインか、他人が保管していたか、私にとっては、飲む前は、歯ブラシ程度やいつも座るイスの場所程度に愛着はあるが、飲み始めると、どちらでも同じものである。
ワインをそれほど好きでは無いというわけではない。
ただ、機能が同じであれば、交換可能であり、区別する意味がない。

例えば、家族は別れても、似たような人と次過ごせばいいかというと、それまでの共有した価値観や記憶があり、上記でいう、「同じ機能」とはならず、引きずる可能性がある。しかし、また新しい違う人と暮らし、生活を作り上げていけば、同じように愛着も湧くだろう。

また、自分の身体に関しても、もし同機能の身体をくれれば、例えば顔が違っても、いいと思う。
同等の機能であれば住む場所が変わってもいい。一所懸命は、機能的な理由があればするが、愛着では行わない。

ということで、愛着は、交換不可とする理由にはなり得ないと思うが、如何だろうか?



つまり、自分以外のもの、生き物、人に

シトー派

黒童貞と白童貞とは?~中世ヨーロッパに革命を起こしたゴシック建築入門
https://m.youtube.com/watch?v=-tcORFuiWYE

岡田斗司夫さんの動画をなんとなく纏めると
・ヨーロッパは古代に栄え、中世で没落し、近代で再び栄えた
・中世においては、国土が針葉樹に覆われ、夏は暗く、冬には落ち葉で動けなくなる。町と町は寸断されていた。森には狼がおり、生命の危険を脅かされていた。氷河期であり、農業の生産性も低かった。キリスト教の普及は低く、農民や商人は土着宗教を信じていた。
・シトー派はベネディクト派から分離した宗派で、農業など技術を有していた。人里から離れ山に篭り神に祈りを捧げたベネディクト派とは違い、農業を農民に任せるのではなく、修道士自らも農業をするべきと考えた。そして、農地を増やすため、焼き畑ではなく、針葉樹の伐採を進めた。
・その結果、農地が増え、農作物の収穫が増え、人が増え、さらに農地が増えるというサイクルに転じ、キリスト教が普及した。


ワイン資料ではシトー派は勤勉真面目で、ベネディクト派は享楽的と学んだ記憶があります。しかし、シトー派の行動原理は次のように推測される。
キリスト教を広めることを目的としている
・布教以外のものを切り捨てる合理性がある
リアリスト(針葉樹を切る、農民と働く、科学技術を持つ)
の集団であることが見えてくる。

彼らが本当に敬虔な気持ちでワインを作っていたのであろうか?
それは、キリスト教のために作っていたのであって、ワイン自体に意味を見出していたのではないのではないか?
反省のためのワイン:シトー派
という認識であったが、キリスト教布教目的とした合理主義ではないか?オウム真理教が○リンを作ったのと同じであるように思う。
シトー派に精神性などあったのだろうか?
シトー派に問題が提示されると、現実的な解を導くための、ロジカルな分析が行われるのであろう。それはこれまで想像した沈考ではない。
むしろ、神に祈ることを重要視したベネディクト派のほうが神秘主義で、我々の使う「精神性」の言葉に合致しているのではないか?我々現代人の意味する沈考を行ったのではないか?

これらを踏まえると、ヴージョやエシェゾーの冷たさや暗さは、反省、精神性と理解していたが、ロジカルで冷たいととらえたほうが、ストンと府に落ちる。
シトー派のワインはある種、即物的とも思える。

味覚

成長することで、次のことがおきます。
・範囲
 狭まります。
 食べたいものは明確になり、より限定されます。
 そして以前は食べられたものを好まなくなります。
 より味覚嗅覚のある人のものを、そうではない人も
 楽しむことができますが、その逆はありません。
・濃さ
 機微を明確に感じるため、味付けは薄く、
 素材を楽しみます。
 一方で、強い甘さや、卵味などは、機微を消すので、
 邪魔になります。
・量
 少しで分かります。
・品質の足切り
 ダメなワインは、ひとかぎで選別できます。
 ゆっくり味わって判断しません。
 分析は時間をかけます。


味覚を鍛えると、どうでもいいものが増えます。
以前パン焼き器でパンを焼いていましたが、どうもうちのパン焼き器はパンを焼くのが下手で、パン生地こねだけ任せています。
家でパンを焼くと、店のパンには、多くの塩と砂糖と油が、食パンですら含まれていることが分かります。それは、より多くの味覚に合わせて作らないと売れないので、味覚が無い人のための味付けになっているためです。
これまで、無添加バゲットや食パンなら許してきましたが、ますます狭くなりました。
そして、パスタも、生地から作るようになると、如何に乾麺が小麦の味わいを失っているかが、分かりました。

素材をそのまま損なわず食べたいだけなのですが、加工食品は過剰な味付けがされているばかりか、味わいも目減りしています。
スーパーにはいろいろ売られていますが、買いたいものはあまりありません。

なんでもありがたくいただく?
それは、味覚が無いのです。
味覚能力は、会社で偉くなる、など、不要な能力ですので、大人になるに従い、衰えるのが普通です。料理人であっても大衆から離れた味覚能力を持つ意味は、多くのケースで仕事上、無駄です。
だから、味覚能力がある人、というのは、社会の基準からずれているのです。

味覚の成長は不可逆で、狭く狭くならざるをえなく、そして、社会から離れていく面が、しょうがなく、うまれます。