ブルゴーニュワインの感想 改めて、テーマ見直し中

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3日目の2005年

そもそもにしてオーレリアンヴェルデを2005年に一般化していいワインとは思わない。むしろ、他の生産者より優れ、ヴェルデでだめなら、大方の生産者に関してはあきらめたほうがいいのではないかというくらい、ヴェルデを信じている。

ヴェルデは旨い。これは正しいと思う。


そして、1日目のヴェルデは明らかにしぶと過ぎ、先が見えないため、軽く栓をして、部屋に放置した。当然温度は変化するし、酸素からも守られない。そして、3日目。1日目はあれほど硬く、うんともすんとも言わないワインの代表格であったのに対し、味わいがときほぐれ、1月はじめに飲んだ今年一番美味しかった桜色のデュジャック88を彷彿させるところまで上っている。
ただ、それでもタンニンや酸が硬く、そのほとんどを閉ざしている。香り自体もそれほど大きく変わっていなく、黒果実と桜のコンポートが少しボリュームが大きくなっている程度。


きっと、このワインを後15年後に飲んだら、感動するレベルに至るのでしょう。ただ、それを管理できるスペースがないため、自分には、これからの未来を想像するしかない。
もし可能なら、2006年のヴェルデがほしい。2006年のヴェルデはもっとやわらかく、早く開く。きっと、後5年程度で十分熟成感が発揮され、さらに5年待つことで、美しく昇華できることだろう。やっぱり買うならNSG。


今飲んでいるオートレイもNSG(1級)なのだけれど、偉大なマルコンソールやクロサンドニを髣髴させられる。


美味しいな。
ワイン会などで、イロイロな種類のワインを飲むのも楽しいけれど、こうやって、自分の好きな生産者の好きな区画を飲めるということは、格別だ。とても愛おしい。コストパフォーマンスや効率は落ちるが、もとよりブルゴーニュの本質は、コストパフォーマンスを度外視したところにある。正確に言うと、安くて旨いものを探すのではなく、高くて旨いものを探す世界である。そのような世界で、効率的に動けないのはしょうがない。

大先生にワインを教えてもらい、より早く進んでいくのも大事なことであり、そのような仲間からすると、停滞感があり、焦りを感じるのもうそではないが、それでも、そこには、本質の一部、すなわち、停滞し、「深くもぐる」ことに欠落している。早く答えを知ろうとしてはいけない。答えを早く知ろうとすると、浅い答えしか知ることができない。我々が求めるのはその奥のはず。


「好きな品種をピノノワールというのはかっこ悪い」と師匠が言っている。それは、より広くワインを知ろうとしないことへの警告だと思う。それも正しい。しかし、そうやって、イロイロな産地のイロイロな区画と産地をマトリックスで知り、本質に至ることができるのだろうか。ワインを知るということは、区画や品種や自根なのだろうか。それらはワインという本質の表現形態の差異である。ただ、その程度の差異では、本質に迫れないと直感している。



昨年学んだ重要な表現形態の差異は、偉大なルロワとノエラの差だった。特にクロドヴージョにおいて、ルロワがより純粋さを追求して「濁り」を廃した結果、チャーミングな味わいになり、リリース当初はよかったのだろうが、ワインは熟成した後に評価されるべきである。
チャーミングなルロワに対し、ノエラは黒果実中心で、深く包容力があり、その内部に取り込まれる可能かのような、ワインであった。
結局ルロワが廃したその濁りが、ビン内熟成に必要な要素であったのではないかと思っている。


個人的に、今度、ゆっくりノエラを飲んでみたい。
なお、2005年のヴェルデは2006年と異なり、その濁りを持っている。可能性はあると思う。