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   繊細なジュヴレか、82グランドリュ、もう一回飲ませて!

シャンボールミュジニー

1989 ミュジニー・ブラン ヴォギュエ
→写真無し
1976 ミュジニー ヴォギュエ

1983 ミュジニー ヴォギュエ


まずルージュについて。
83はベジタブルな青さが目立ち、ブルーベリー、ピーマン、苦味、トマト、レモン、ニッキがある。ボディがしっかりしていて、重たい体つきで、軽やかさやクールな酸や大理石のような白さはなく、ずぶずぶと鈍い。その上、甘さが目立つ。ブルゴーニュのニュイらしくない。ちょっとボーヌっぽい。

一方、76は83のベジタブルな青さを減らし、焼けたニアンスを加え、毛羽立ったテクスチャーになり、スケール感を小さくし、フラットにした味わいになる。ちゃんとというか、やっぱりというか76の暑さが反映されている。ヴィンテージの違いをフィルタすれば、本質的な個性は同じ。


A氏にいわせると「隕石が落ちたようなテロワール」ということになる。うまい表現だと思います。

一方、ミュジニーブラン89は、香りがヨーグルト、といっても駄菓子モロッコ・ヨーグル

のケミカルな香り。あまりいい香りではない。
味わいについては、こちらもミュジニーの甘さを抜いた感じに仕上げ、それに、硬く粘土の高いミネラルをきかしている。
(ミュジニーブランはプティミュジニーでも端でレザムルーズよりの区画と聞いたことがあります。)



若干の位置の差異はありますが、品種固有の特徴を超えた先にある共通項と品種固有の力で増幅された土地の個性があると再度思いました。しかしながら、共通項だけがその区画の本質かというと、そうでもなく、ピノノワール(orシャルドネ)でもってして掬い上げることが出来る本質というものも存在すると思い直しました。

またヴォギュエのミュジニーは、(自分の経験では)繊細さや崇高さや奥深さやとはかけ離れていると思います。ただ、そうであってもそれはそれで意味があるのではないかと思いました。このヴォギュエミュジニーがテロワールを表現しているのであれば、よしとするミュジニー像と異なるからといって、それを否定するのは間違いであるのではないでしょうか。つまり、我々の主観に合わせてワインを存在させなくてはならないという考え方自体が誤りであるともいえます。

まとめると
・ワインはテロワールのあるがままに存在する。
・我々のあるべきテロワール像というものが歪んでいる可能性がある。
・我々のテロワール像に反しているからといって、そのテロワール
 評価を下げるべきではない。
・つまりヴォギュエ・ミュジニーは悪くないはず。




ジャックプリウールで感じたことは、プリウールは消費者の趣向を考え、樽香を効かせたりして、ワインのスタイルを消費者の趣向に近づけていたように思います。(多寡はあるがどの生産者もやっていることです)

ただ、そういうワインは、趣向が変わると、見向きもされなくなり、ワインのライフサイクルを通じて、高い評価が得ることが難しいはずです。あるべきワイン作りは、消費者の趣向と一線をかくして、ワイン自体がありたい像をイメージして行うことと思ったりします。つまりワイン自体を敬い、そのワイン自体の像をメッセージを取り出そうと献身的に行う行為がベストなあり方と思います。そのために必要なテクニックを使い、消費者や自分のあるべきスタイルへ近づけるためのテクニックは使うべきではないともいえそうです。

自分はワインを作ったことはありませんが、コーヒーの焙煎、抽出においてはそのように心がけているので、その気分は分かります。
またワイン観を見直す必要がありそうです。ヴォギュエミュジニーに教えられました。

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