ブルゴーニュワインの感想 改めて、テーマ見直し中

     このブログと私は行き先不明です

オスピス・ド・ボーヌ

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①ラ・メゾン・ド・クレマン クレマン・ド・ブルゴーニュ・タストヴィナージュ・ブリュット NV 泡
②オスピス・ド・ボーヌ ムルソー キュヴェ・ロパン 2001年 白
③オスピス・ド・ボーヌ バタール・モンラッシェ ダーム・ド・フランドル 1993年 白・特級
④オスピス・ド・ボーヌ ボーヌ キュヴェ・ニコラ・ロラン 2011年 赤・1級
⑤オスピス・ド・ボーヌ ポマール キュヴェ・ダム・ド・ラ・シャリテ 2003年 赤
⑥オスピス・ド・ボーヌ コルトン・キュヴェ・シャルロット・デュメ 1990年 赤・特級
⑦オスピス・ド・ボーヌ ムルソー キュヴェ・グロー 1923年 白

 

オスピスはタイトでベジタブルで樽々した印象がこれまであったが、印象は変わらず。
収穫時期や醸造に課題がありそうである。個人的には買わない。

個別にいうことはあるが、④⑤⑥については早すぎであったり、コンディションが悪かったりししたため、省略。


ムルソー キュヴェ・グロー 1923年について
⑦はポリュゾとグットドール近くのヴィラージュのブレンド。
色合いは褐色であり、酸化したリンゴのようでもある。
コーヒー・キャラメル香や蜜があり、その奥に芯のある酸と青リンゴが控えている。
ドメーヌローランのポリュゾや、ラフォンのグットドールを思い出させた。(注:全くラフォンぽい個性はありません。ラフォンらしさを除き、畑の個性をさしています。むしろ、ローランにキャラクターは近い。)
ポリュゾ7:グットドール3の割合の印象。(あくまで印象)

90年前の人も、現代も、醸造が変わろうとも、区画に由来する個性は共通であり、普遍性が貫かれているようです。ブルゴーニュの100に渡ってのヴィンテージを書かれているあの本で、著者は19世紀であっても、真っ当な醸造をしたものは今でも楽しめるだろうと書かれていましたが、そうなのかもしれません。

自分は、全く、1900年より以前のワインは今のワインとまったく異なるもので、我々の味覚では美味しく飲めたものではないかと思っていましたが、そうではないのかもしれません。時が移っても、19世紀の人が見つめたワインと、我々が見つめているワインは本質的には同じなのではないかと思うようになってきました。
今まで、19世紀に付けられた格付けが有効であるのは、区画のポテンシャルが不変であるためであり、個性が不変であるとまでは正直、疑っていました。いえ、そんな古いものを飲んだことは無いので、断言できませんが、信じられるのではないかと思うようになってきました。
そうであるなら、19世紀のラヴァル博士の評価が現代に通じるのは、当然です。

時を越えて、熟成を超えて、その区画が表現するものを留めているのであれば、時間と場所を越えて、全ての人は同じものを体験しているのであり、その共感・同時的な世界は感動的であり神秘的です。すべての場所に存在する光は、たった一つの光子であり、宇宙開闢からその終焉まで時空を超えて、唯一存在するものを人は見ているという説がありますが、まさにワインも同じものであるのでしょうか。そうであるなら、どれだけ嬉しいことでしょう。

 

以下、引用。

はじめの、無意識の神であった自我が、自分自身を意識しようとするとき、自分を意識化するために、自分の存在を自分以外のものによって、いわばそれを鏡にして、反省することが必要になります。ですから神もまた、自分自身を内的に体験できるためには否我を定立せざるを得なくなり、そこから宇宙が始まるのです。古代のグノーシス派の言葉を用いれば、神の意志の力が物質となって流出するのです。そしてその流出した物質世界が非我なのです。

そうしますと、非我とは神ではないものですから、常に悪魔の影を背負っています。そして根源の自我である神の中には、全の要素、真の要素、美の要素が潜在的に全て含まれているはずなのです。

非我というのは、言い換えれば、善でもなく、真でもなく、美でもない存在のことですから、それを人格的に表現すれば、悪魔ということになるのです。

つまり、人間における自我が人間における神的部分であるとすれば、感覚的近くの内容は人間における悪魔的部分ということになります。こういうところからシェリングは、悪の由来を説明していくのです。

しかし、自然そのものは、もちろん100%悪なのではなく、神から流出したという意味では、その中に神の要素を含んでいます。しかしいったん神から離れ、神の働きを制約するようになると、すでに悪の働きになってしまいます。そのような悪が存在するのは、流出行為そのものの意図の中に含まれている、神がより良く自分を意識するということのためなのです。(高橋巌 シュタイナー哲学入門より)

 

ワインを通じ、常に神的なものを見たい、理解したいという思いがあります。
しかし一方でワインとはそれほど高尚なものなのか、疑問がわきます。ワインとは上記のとおり、この物質界に属する悪魔的なものに過ぎないのではないか、と。
しかし、こうして、味わいの普遍性を提示されると、物質的ではない、魂的、霊的なものにより支配されているようにも感じます。