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   繊細なジュヴレか、82グランドリュ、もう一回飲ませて!

感想の感想

ワインを戴き、「お気に召されて良かったです。」というメッセージを頂き少し考えてしまいました。以下、ワイン会のあとに自宅に戻り綴ったもので、取り留めない内容なので、ご容赦ください。

単純な感情では、
甘くて、癖がなくて、さっぱりしている=美味しい⇒好き
という方程式が成立します。
しかし、味覚やその他身体感覚や知性や自我などが発達することで、
ネガティブであった要素、苦さ、辛さ、渋さ、すっぱさ、アルコール...
そういったものを人は受け止め、味わい、楽しみに変えていけるようになります。

そのようにして幼い味覚は成長していくため、それまでの感覚における美味しいというのは、成長を阻害しているともいえます。そのため、常に、美味しいと思う以外の範囲のものを受け止めたいという思いを持っており、それを達成できることが喜びとなります。

美味しい/おいしくない、
それを目的にするのは成長の観点からすると不十分であり、
質が良いもの/良くないもの、
内容があるもの/ないもの
メッセージ、
それらを受け止め、味わい、理解し、返していき、
しいては味覚以外を含めた、経験を理解すること、即ち、
すっぱい経験、苦い経験などなどを受け止め、消化し、苦さの中に味わいがあることを理解することがこの生を受けた意味の理解を促進させることにつながります。


ワインが美味しいか不味いか、
もしちゃんと作られたワインが、例えばヴォギュエなどがシャンボルらしくないなどと、らしくないと思うのであれば、それは我々のワイン観がゆがんでいるのであり、捉えなおす必要があるということだと思います。

今日飲んだモレサンドニなどは気難しい区画ですが、あれは、単純に美味しいものを良しとしないところであり、多くの示唆を与えてくれるようです。

そういった視点に立つとき見えてくる光景は、高級ワイン・レアワインをグルメの感覚で追い求めることに意義はなく、他人がどのようなワインを飲もうと他人の人生における経験が自分の人生における経験にはなにも関係がないことを納得させます。またゆえに高級ワイン・レアワインを卑下し、低価格のワインでよしとするのも間違っているといえます。
自分が必要な経験と思えばするべきであるし、必要でなければ経験する必要がないただそれだけのことで、経験できなかったことに意味はない、そう思います。

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