シャンボール・ミュジニー(1)11/7
どういうときにシャンボール・ミュジニーを飲むのか?
という問いかけがされました。
個人的には、
「前回はアミオのシャンボールミュジニー1erプラントを飲みました。なので今日は、別のプルミエを飲みたい。」とか、「この生産者のシャンボールを飲んでみたい。美味しければ他も買ってみたい」とか、「中央部を横断する形でブレンドされたシャンボールだから飲んでみたい」とかです。
どういうとき、という指定はなく、ワインを飲みたいのではなく、シャンボールを飲みたいので、しばし、どう答えていいかわかりませんでした。
例えるなら、ゴルフ好きの人に、どういうときにゴルフに行くのですか?と聞いて、「いや~、土日に家族がいなければいつでも行きますよ!!」という状況と類似します。
「どういうときにブルゴーニュを飲むのですか?」「どういうときにワインを飲むのですか?」「どういうときにアルコール飲料を飲むのですか?」などというように、限定の範囲が異なる違いのようにも思いますが、それは違うのでしょう。この問いは人によって意味がある/無いということになるのだと思います。
例えば「どういうときにブルゴーニュを飲むのですか?」という問いが有効な人は、ワインを飲むときブルゴーニュを飲むか、ボルドーを飲むか、ローヌを飲むか、などの広い視点で検討する人でしょう。そういう方には、なぜシャンボールにするか?という問いも有効かもしれません。でも、そういう人に、なぜワインを飲むのですか?という問いは有効でないかもしれません。
とはいえ、なぜ、あまたのブルゴーニュからシャンボールを選んだ理由とは、感覚的な表現をするなら、酸が高く、香り高く、果実味が低く、石灰的ミネラルを多く感じるからです。そして粘土的な豊満さがなくタンニンではなく、石灰的ミネラル感でワインの背骨を作っているところに魅せられていると思います。
また石灰のイメージや、果実味を欠けたところや、ボリュームを欠如したところやから、総合して、シャンボールには死を想起させます。人智学には眠りを認識する行があります。人智学的にとらえると眠りとは死に近い状態であり、死における霊的なあり方を理解するために、眠りを認識します。
シャンボールを飲む行為というのは、行ではないかと思っています。
故に一人で飲むべきワインであり、人と飲むのであれば行をともにできる人と飲むべきであり、心を静めて向き合う必要があるように思います。