ブルゴーニュワインの感想 改めて、テーマ見直し中

     このブログと私は行き先不明です

ルフレーヴ水平、垂直(後)

2011 Bourgogne Blanc 
2007 Bourgogne Blanc 
2011 Meursault 1er Cru Sous le dos d'Ane 
2011 Puligny Montrachet 1er Cru Les Combettes 
2011 Puligny Montrachet 1er Cru clavoillon
2011 Puligny Montrachet 1er Cru Les Pucelles 
2010 Puligny Montrachet 1er Cru Les Pucelles 
2010 Batard Montrachet 
2004 Bienvenues Batard Montrachet 
1994 Puligny Montrachet フォラティエール
1994 Batard Montrachet 

 

2004ビアンヴニュバタールはいまだ04の特色を色濃く残し、Watanabeさんが好みとされるスタイルであった。このあとの94のことを考えると、あと10年は待ちたい。

1994フォラティエールはおろしたてのバカラのグラスのような仕上がりで、透明でありつつも湾曲した光を通す。表面的な味わいは取れるのものの、その内面的な味わいはガラスの内側に触れれないように近寄ることができず推測することしかできない。果実など、新しいワインに見られる物質的なものは洗い流されエネルギッシュなものもそぎ落とされ理性的なものもそぎ落とされ、光のようなものが残されている。

ピノノワールと比較すると単純なシャルドネであり勝負する要素が少ないため、そのままではどうしても複雑さで劣る。それを補うため、樽や抽出や貴腐などでデコレーションする方向で攻める足し算のスタイルも一方にある。それは物質的・即物的・理性的で分かりやすい反面、テロワールという視点からみると、退歩しており、シャルドネを飲むくらいなら、ピノノワールを飲むほうがいい、シャルドネピノノワールの下位品種であると思える。

しかしながら、引き算という観点で見たときに、より少ない要素を磨き上げ霊性の高みに位相転移させ昇華した時に、シャルドネの独自の価値を感じる。そういったことができるのであれば、単一品種としてのシャルドネは価値があり愛おしい。

 

1994バタールは、10年のバタールが「建てられたばかりの金閣寺で近寄ったらディティールが全く作り込まれていなかった仕上がり」であったことに対して、金箔が剥がれはじめややディティールが見えるようになっている。派手であることを売りにしているものが、こういった仕上がりになっているのを見るとどっちつかずで需要がない。

バタールはまだなのだろうか?自分は違うと思う。

フォラティールの標高があってあの仕上がりを実現できたのではないかと思う。ピュセルであったらどうだろうか?華やかな香りが昇華され悶絶しそうである。ただ、フォラティエールのような無色透明な仕上がりの世界には至れないのかもしれない。クラヴァイヨンであればどうか。近づきやすさ、庶民性というものがそこには至れないような気もするが化けるような気もする。シュヴァリエは手が届かないが、「有」であるが故に、94程度ではまだ昇華されていないだろうし、さらに時間を経たとき、20年以上経過したコルクの保存性が落ち持たないかもしれない。

 

新しいヴィンテージをのむ機会が多くなっていたことで「引き算」の素晴らしさを忘れていた。シャルドネは引き算で独自価値を有する。