”ブリュノ・クレールの再評価”とブルゴーニュ愛好家としての指針
前項と矛盾することを考えている。
その後、ゆる系代表のジェラールラフェのシャンボールを飲み、ブリュノクレールも残っていたものを飲んでいた。ブリュノクレールはいったい何を考えて、何がいいと思い、あの造りを続けているのだろうか?
あのタンニンと酸と樽香がきつく、果実をそげ落としたスタイルは、熟成とともに洗練されるものではない。また熟成とともにバランスがよくなるものでもない。その歪なバランスはますます歪みが大きくなるだろう。とするならば、ブリュノクレールはあれが最終形態であり、あのスタイルこそがいいと思っているのだろう。
以前
にて、
■指針
1)クリマが単位ではなく、リューディが単位。
2)リューディは基礎教科。基本は土壌である。
3)AOCは一定の確からしさをもつが、妥協の産物でもある。
4)1)~3)を基本としテロワールを探求するのがブルゴーニュ愛好家である。
ということを書いた。
これは間違っていないといまだ考えているが、ブリュノクレールの事例はそれを踏まえた上で、テロワールをどのように理解しているかによって、正しさが異なるということを教えてくれているのではないかと思う。
我々は飲みやすく、美味しいものが「正しい」または「良いもの」であると考えているところがある。その基準から行くと、ブリュノクレールは「良くないもの」「間違ったもの」となるが、彼は、ブルゴーニュとは、ゴリゴリして歪なものであると理解し、それを伝えようとしているのではないか?
確かに、北の北限の地におけるブルゴーニュは、確かにそういうものなのかもしれない。彼はテロワールを理解したうえであえてそうしているのであり、筋が通っている。であれば、尊重される判断なのではないだろうか?
ということで、ブリュノクレールは美味しいとはいいがたいが、理解することに挑む価値があるように思う。指針は次のように更新される。
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■指針(ver.2)
1)クリマが単位ではなく、リューディが単位。
2)リューディは基礎教科。基本は土壌である。
3)AOCは一定の確からしさをもつが、妥協の産物でもある。
4)1)~3)を基本とし、テロワールに即したワインの在り様を探求するのがブルゴーニュ愛好家である。