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パンが私たちを養うのではない

ワインを美味しい/まずいという怠惰な分野に貶めている、昨今です。そして、物質的な、地上的な視点で食事を解釈することに慣れ切っています。ということで、次を抜粋しました。

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大宇宙を、自然を、調べつつ味わっている味覚器官を、私たちは実際どのように用いているのでしょうか?残念なことに味覚ほど堕落してしまった感覚はありません。その堕落は既に天国で始まりました。天国でなされた誘惑のことを想像してみてください。良い香りによる誘惑なら想像もしやすいでしょうが、下をちらつかせている蛇の誘惑をです!そんな誘惑は不可能です。だからこそ蛇は味覚に訴えなければならなかったのであり、味覚に訴えることによってこそ、目的を達することができたのです。そしてその結果、私たちは味覚と正しく関わる術を失ったのです。

もし「お味は如何ですか?」と尋ねる機会があるとするなら、皆さん肌多段順に『おいしい』とか『おいしくない』とお答えになるでしょう。そしてそのように答えることがすでに堕罪なのです。~中略~ ただ単純においしいか美味しくないかを味わうことは、天地創造の意図では消してなかったはずではないでしょうか?だからこそ次のように考えるべきなのでは無いでしょうか?何かを味わうということは、宇宙の一片を向かい受け入れるということなのであり、そしてそれは、宇宙の中で活動するための私たちの肉体、私たちの道具とならなければならないのだと。~中略~

 

私たちは味わいながら、世界が私たちをどのように潤すか、私たちのうちにどのように受胎するかを調べているのです。ではあれこれの服を身につけるとき、あるいは部屋を整えている時、私たちはいったい何をしているのでしょうか?私たちは世界を潤しているのです。世界が私たちを気付き、覆って暮れているだけでなく、私たちもまた答えを返事を好意を世界に返しているのです。そしてこれこそが私たちの文化なのです。文化について語る時にはいつも私たちはは味について、味わい深さについて借ります。一方では世界が私たちに味わえる物質実態を送ってくれます。私たちはそれを受け入れ、かの転換点で調べつつ味わいます。他方では私たちが世界が私たちにしてくれたようにして世界にお返しをしています。そしてそのお返しは、味わいという同じ言葉になるのです。つまり私たちは文化の味わいを世界に返しているのです。世界が私たちを世界の衣服で覆って来るように、私たちは世界を私たちの文化で覆います。もう少し厳密に述べるなら、世界が私たちのために、物質実態を大宇宙的なそれから小宇宙的なそれへと変換してくれるように、私たちも世界を絶えず変化させているのです。このことこそが味というものの内実なのです。

皆さん、味覚には実に深いものがあることがお分かりになったことと思います。例えば聖書に帰されている寓話の中でも最も印象深いものを探してみるなら、空腹と喉の渇きについての話が見いだされます。見かけ上は全く外面的な空腹とのどの渇きのイメージが極めて深い表現になっているのが分かります。このように食べるということは神聖な要件なのです。文化の形成が神聖な要件であるように。一方では世界が人間を潤した方では人間が世界を潤します。エジプト時代に描かれた素晴らしい絵があります。そこでは一人のファラオが天井の牛のミルクによって自らを直接潤しています。

世界は私たちを食べ物で潤してくれるだけではありません。私たちは食材としての物質を体内に取り込みますが、教材としての書物をむさぼり読むこともできます。もちろん消化できな書物や授業もあるでしょうが。私たちは実際、地上的な食べ物と精神的な食べ物とを区別できません。両者は原理的に同じものなのです。このことはアンゲル・シレジウスの言葉の中に美しく表現されています。「パンが私たちを養うのではない。私たちがパンの中に味わうのは、神の永遠の言葉なのであり、生命と霊なのである」

原子や物質成分が私たちを健康にしてくれると考えるのは正しくありません。私たちは常に、生命を潤すプロセス、いわば受胎プロセスによって癒されているのです。それはもちろん苦いプロセスでもあります。人生経験の様々な局面もまた、味覚の故障で表現されているのは奇妙なことだとは思われませんか?苦い経験、気難しい《酸っぱい》やつ、愛らしい《甘い》子供、などと。興味深いことにナイル川が大きな役割を演じていた古代エジプト時代には、人生の試練という意味合いを持つ一つの言葉が同時に『小舟』『人生経験』『味』を表していました。~中略~ 不快な経験を通してこそ、私たちはより強く、より健康になることができるのではないでしょうか?

~中略~

このような観点からするなら、自然な食材について語るのは正しいことではありません。実際動物とは異なり、自然な食材は取っておりません。口にしているのは栽培された《文化的な》食材です。というのも農業は一つの文化なのですから。ですからこう問うべきなのです。「目指しているのは健康な文化なのか、それとも不健康な文化なのか」。健康な文化を養うことを通じてこそ健康に栽培された食材が得られるのであり、その食材から私たちは、私たち人間を養っていくための食事を用意することができるのです。

最後に次のような観点を付け加えようと思います。というのも「私たちは食材の何を食べているのか?」という問いも大切に思えるからです。私たちはなぜ花を食べないのでしょうか?もちろんニワトコやアカシアの花を小麦粉に入れて焼きますし、花びら入りのジャムだってあります。カリフラワーも食べています。さて、実際何を食べているのでしょうか?炭水化物、たんぱく質、油脂、ミネラル、などと人は言います。しかし私はそういうものは一度たりとも食べたことはありません。私は料理を食べているのです。料理とは何でしょう。それは調理された食材です。食材は食卓におかれる前に台所で煮炊きされなければなりません。台所では日が主役になります。火の無い文化は考えられません。しかし日は度どころだけのもではありません。つまり食材はすべて台所へやって来る前に太陽の日であらかじめ調理されているのです。太陽は私たちの植物に何をするのでしょうか?私たちが葉の段階で収穫しなければ太陽は植物に花を咲かせ、さらに実や種を付けさせるはずです。太陽のイメージを見事に映し出しているのは様々に咲く花々です。では台所で何をしているのでしょうか?根や葉や茎などを煮炊きすることで、実際的には、そこに花を咲かせようとしているのです。

人智学講座 魂の扉・一二感覚 アルバート・スズマン~

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最後の「太陽」の話は示唆的で、上質なワインを作ることを考えると、太陽は重要なのですが、それ以上に料理されていることが重要であり、醸造工程・瓶熟もワインの調理工程といえます。完熟な実を収穫するのは、太陽に料理させ終わることを意味しますが、完熟でない実を醸造で花開かせることで、より工夫をこらせた調理ができるのではないでしょうか?完熟することが難しい、北限の地がよいのではないかと思うのです。そうすると、行きつくのはブルゴーニュやオーストリア、そしてその北のドイツとシャンパーニュともいえます。特にシャンパーニュの瓶内二次発酵の工夫や、瓶内熟成などは、調理の工夫ともいえます。また北限の地は厳しさがあり、味わいにも「不快な経験」を取り込めます。上質なワインをこの文脈で定義するなら、太陽と人によって適切に調理され、やさしさのみならず厳しさなどを含めた個性を有するものとなります。

脱線しますが、ワイン文化において、ここに大地の要素が入ってきます。ワインは大地の記憶を包含しており、それが味わい深さを可能にしています。

上質なワインを作りあげ、それを味わうことは、太陽や自然や過去の地球の営みを教材として受け取ります。それらは生命と霊を与えるものであり、味わうことはそれらを受け取る受胎プロセスです。