ブルゴーニュワインの感想 改めて、テーマ見直し中

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リューディでないものの価値とは

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リューディの特定されない広域ブルゴーニュである。

ブルゴーニュに埋没する人種にとっては没個性で意味を見いだせない。一部のひとは、いや今や多くの人なのかもしれないが、広域ブルゴーニュを買ってそのヴィンテージや生産者の個性を、スキルを図るということをされたりする。

まあ、現代は、トップキュベを金を惜しまない造りをして評論家の評価を獲得し、下の広域ブルゴーニュなどで儲けるビジネスをしているため、そんなものを飲んでも、参考になりはしない。またヴィンテージキャラクターと言っても、リューディを特定しないと、本当のところは分からないし下のキュヴェは収穫の優先順位が下がるので、本当のヴィンテージキャラクタを表現していない。

 

当たり前であるがブルゴーニュはリューディの差異を理解することが重要なことである。テロワールというのであれば、基本はリューディである。こんな当たり前のことをいう必要もないかもしれないが、上記のような文化にある状況ではそうではない。

そして、ブルゴーニュに埋没する、即ち、他の生産地を飲まない人にとっては、広域ブルゴーニュでブレンドされたものというのは、上記でも述べた理由からあまり意味をなさない。(決して安物だからという理由ではない)

 

そう、考えていた。

確かに上記は間違えではないものの、ある前提があるうえでの成立である。それは、ブルゴーニュ以外飲まないという前提である。

リューディ主義の人に聞いてみるとして、単一リューディのワインだけの状況で、どのワイン、いや、どのリューディが最もブルゴーニュらしいのだろうか?いやリューディだとせずとも、村名以上のワインで、どこの村がブルゴーニュらしいのか?

心の中にあるブルゴーニュのイメージを体現する村、畑というのは、自分の経験では、見当たらないが答えである。とあるヴィンテージでとある生産者のあるキュベがブルゴーニュを体現する場合があるかもしれない。しかし、それはヴィンテージや生産者によって変わってしまうだろう。

どの村も、どのリューディも心の中にあるブルゴーニュとはずれている。裏を返すなら、ブルゴーニュを代表するのは、理論的には広くブレンドされた広域ブルゴーニュであるはずである。