ブルゴーニュワインの感想

     所詮感想です。

もっと大きい目で見てみる

ラヴノーがどうとか、デュジャックがどうとか、ルロワがどうとか、
ロマネコンティがどうとか、ラターシュがどうとか、ロマネサンヴィヴァンがどうとか、
自然派とか、
過度の補糖が良くないとか、
そういうミクロなテクニカルな視点では「なぜ補糖がいけないのか?」などの問いへの答えに詰まってしまいます。いや人工的な味なんだよとか、答えても「なぜ人工的ではだめなの?」と聞かれると「いや、補糖では作れない余韻があってね・・」とか「うそ臭い味なんだよ。本来の味ではないんだよ」などと納得できるような、現時点では単にそうなっているだけでもっと努力したら改善できるのではないか?というような疑問を残す回答になりそうです。そういったミクロな視点というのは、日本のマニアの間で語りつくされており少々閉塞感を感じます。最終的には経験の多い人と声の大きい人の言うことが正しいということになりがちな真理から遠い状況です。そういったミクロな点をワインの微細な違いとして、例えばテロワールの違いや生産者の違い、醸造方法の違い、そのようなものを楽しむこともあるかと思いますが、ゴールや意義が見出しかねなく、コレクション的な浅く広い知識の収集に満足するしか無いように思えます。
自分は、そのような、本質的でない楽しみ方を全てとしたいとは思いません。そうではなく、もう少し大きい目で、高い視点で見てみることも必要なのではないかと考えています。

そこで、最近なんとなく考えていることをまとめてみます。

ワイン発祥は中東あたりからだそうです。(by wiki)
ワインは最初は糖度の高い葡萄から自然に発酵したというのが起源と考えられています。(Step1

それが北上し、ギリシャなどに伝わり、人為的に発酵環境を整え、ワインの質が飛躍的に上がったのでしょう。それは、文明化された社会であったこともあるのでしょうが、環境的に、人為的に整えてあげないとうまく発酵させることが出来なかったと想像されます。(Step2

そして、さらに北上し、ローヌにいたり、さらに北上しブルゴーニュに至ります。
ブルゴーニュの偉大な点は、テロワールの偉大さ!といいたいところですが、ボーヌよりさらに北上してニュイで赤を作っている点に他ならない点です。本来であれば赤は色づくのに日照量、積算温度が必要であるはずなのにそれを無理して、赤を作っています。つまり他の産地と比べると完熟しない葡萄をつかってワインを造り、未熟な要素をワインを長期間の樽発酵と瓶内熟成で補う点にあります。(Step3

最後にシャンパーニュに到り、さらに完熟しない葡萄を補うために、瓶内二次発酵を行い、さらに澱と接したままの熟成を長期間行います。(うろ覚えですが、ドンペリニョンの長いものだと20〜25年程度行っていたと思います。そのあたりの正誤性は本質ではないので好きに調べてください。それは本旨ではありません)(Step4

即ち、
Step1 ワイン発祥:自然に発生したワイン(中東)
Step2 完熟した葡萄で意図した醸造を開始(ギリシャ、南仏)
Step3 完熟していない葡萄で醸造と瓶内熟成を工夫したワインを醸造(ブルなど)
Step4 さらに完熟していない葡萄で醸造と瓶内二次発酵と瓶内熟成を駆使したワインを醸造(シャンパーニュ
と徐々に進化を遂げています。
その歴史は、自然の力で勝手に出来ていたワインを、より人との手をテクノロジーを使ってワインを生み出すことが出来るようになってきた歩みであり、自然が与えてきた熱や発酵を人の手で代替し精度を高めたとも捉えられます。

コーヒーの焙煎をしていて感じるのは、良いコーヒーを造るには、さまざまな工夫を行い、本来あるべきものを取り出すことが必要です。本来あるべきものを取り出すことを邪魔するテクノロジーは邪道ですが、それを促すテクノロジーはむしろ王道です。そのテクノロジーが王道か、邪道かは、突き詰めると生産者や生産者と同等以上の知識と情報をもったものしか判断できないものであり、それを味わう愛好家が判断することは困難だと思います。また畑の質ですら同じで、それも愛好家が判断することは困難です。ただ、こんな感じかな・・・と推測するレベルです。
また補糖が邪道、フィルターが邪道などという人がいますがそれも、愛好家レベルでは判断が難しいと思います。全てはケースバイケース。あるものには必要だし、あるものには不要。そこまでの判断を行うには情報が足りません。単に補糖の量を聞いていい、悪いなど判断することはできないと思います。

脱線してしまいました。
自然が行っていた醸造過程を、適切なテクノロジーを駆使することで代替し、さらに高め、自然の行っていた醸造過程では取り出すことが出来なかったあるべき姿を取り出したワインが上位に来るのでしょう。自然派などは本流からの逸脱です。

そう結論付けるには、ヴィンテージや、土壌との関係や、ドイツやボルドーなどにも触れる必要がありますが、それらは最初に書いたミクロなことであり、一旦この辺りで筆をおくことにします。