読まなくてもよいです。
教科書的な世界観とは逸しています。
共感は得られないでしょうね。
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これまで、プロジェクトマネージメントやら受注やらをやってきたが、部署異動があり、QAに異動させていただいた。性格上そちらの方があっているようで楽しくやらせていただいています。
仕事が変わると読む本も変わるようで、ついこないだまでは、細胞内におけるタンパク質の合成についてネット9割や本1割で調べていたのですが、今年に入り、人智学の西川隆範さんの本を読んでいます。
人智学の本は気が向かなかったのでここ数年読んでいませんでしたが。
ネットを調べると、約20種類アミノ酸(内、人体で作れないものが9種類)を摂取して、細胞内でアミノ酸からタンパク質を作るそうで、では、植物はどうなのかというとどうも植物は水と空気とミネラルからタンパク質を作っているようで、なんだかおかしいな、と思うのです。
タンパク質の合成の話において、書いている人は、動物目線か、植物目線になっており、アミノ酸を作れる・作れないのONOFFが遺伝子レベルで説明しているものを明確に見つけれませんでした。
結局人間は、アミノ酸を植物のように造れるのか、作れないのか、作れないとしたら植物と決定的に何が違うのか?
だってですよ、細胞の構成は、細胞壁や葉緑体などがないだけで、基本的な構造は同じです。だとしたら、基本的なアミノ酸の造る機能は同じなはずで、何が違うのかよくわからないのです。
科学を見る限りでは、人間でも植物と同じように、水と空気と硫黄があれば、タンパク質は作れそうです。むしろ、20種類ものアミノ酸を摂取して、細胞に必要なだけ取り込み組み合わせる方が煩雑で、効率が悪いと思われます。まあ、思うだけですが。
ただですね、
脂質、糖質、タンパク質
と食物を分類したときに、糖質が太ると言われているのですが、それもよく理解できないんですよね。だって、糖質はミトコンドリアがエネルギーを生み出すために燃焼しているのに、なんで、太る(脂質)に転化するんでしょうね?
カロリーと脂質、混同しているのではないですかね。
ちょっと脱線しましたが、
動物も、実は、ベースは、水と空気と硫黄から自分の体を作っていると思います。
ベースといったのは、外部から摂取した脂肪やアミノ酸を流用することもあるのですが、ベースではないと、何となく思っています。
そんな気分の中で久しぶりにシュタイナーの本を読まさせていただいているのですが、シュタイナーも同じことを考えているんですね、うれしいです。
「わたしたちは、食べ物という物質で生きているのだ」といわれるかもしれません。そうではありません。「人間はおよそ7年ごとに新しい体を持つ。体は、常に改心されている』としばしばお話してきました。八年、十年前に体の中にあったものは、今はもう体内にありません。爪を切り、髪を切り、汗を書くことによって、体内にあったものは出ていきます。あるものは早く、あるものはゆっくりと出ていきます。人間は絶えず何かを分泌し、新しい素材を受け入れています。『食べたものは校門から出て、また尿として出ていく。人間は一戸の管だ。食べて、しばらくの間保持し排泄する」というように人々は考えています。しかし、本当の人間の中には、地上の素材は何も入っていきません。事実はこうです。例えばジャガイモを食べるとき、ジャガイモの中の何かを摂取するということは、全く問題ではありません。ジャガイモのはたんに顎や喉を刺激するものにすぎません。ジャガイモは、いたるところに作用します。そして私たちの中に、このジャガイモを排泄するための力が生じます。そしてジャガイモを排泄するときに、物質的な素材からではなく、エーテルから私たちが7年の間に構築するものがやってきます。私たちは本来、地上の素材を何も必要としないのです。私たちがものを食べるのは、単に刺激を得るためなのです。私多胎は情報にあるものから体を構築しているのです。何かを食べ、しばらく体内に保持し、そして排泄すると考えるのは、全く事実に即していません。そのような家庭は単に刺激を与えているだけなのです。このような過程を通して、エーテルから力がやってきます。エーテルから私たちは体のすべてを構築しているのです。私たちが食べ物を必要とするのは事実なのですが、私たちはその食べ物を摂取するのではないのです。中略。食事をするということは、しっげきを与えるということを意味しているにすぎません」
この後のシュタイナーの説明を掻い摘むと、「エーテル体を取り込み、人間のアストラル体でエーテル体を壊し、人間のエーテル体に作り替え、エーテル体が体を作る。肉食では、動物は植物にアストラル体の力を加え肉を形成しておりその肉を摂取することは、十分に人間のアストラル体を働かせることができず、アストラル体がエーテル体を従えることができず、肉体が精神を支配することになる。」といっています。これにより、アストラル体がエーテル体を支配できず、エーテル体にゴミがたまり、体にゴミがたまり、ゴミが癌化するそうです。
ちょっと話が遠くに飛びましたが、アミノ酸は体が作っているように思います。
またエーテル体というと、分かりにくいのですが、その一端に「味」というものも含まれていると思います。
また、ワインで、「垂直性のエネルギー感がある」「浮遊感がある」「重く沈む」「味わいが整理されていない。混とんとしている」など、その最たるものです。
味わいがお話になるようなものが良いワインといえます。反対に、ティスティング用語の単語でしか羅列できないものは、飲むに値しないものです。
ワタナベさんに「良い悪いは好みだ」といわれて、すぐ反論できませんでしたが、やっぱり良い悪いは好みではありません。まったく違います。好みは100%関係ありません。普遍的な良し悪しがあります。
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このような話をオカルトとして、排除されます。
オカルトを嫌がるのであれば、初詣やハロウィンをやめるべきです。
(私は初詣やハロウィンや神社や寺は怖いので近寄りません。
山道に地蔵があれば、薄気味が悪る悪くて。
伊勢神宮に一回いきましたが、表通りの明るさと一歩裏に回った時の薄暗さの
コントラストが不気味で好きにはなれません。
あと、御茶ノ水のロシア系のキリスト協会も不気味で嫌です。
ただ、理論としてこの世界を説明するには、科学だけでは
理論として不足していると思います。
科学を、生物学などを含めて、素粒子論だけで説明しようとするようなものです。
それでは足りないです。)
タンパク質の合成を科学の面だけで説明しようとしても、
植物にできて、人ではなぜできないのか等説明は難しいと思われます。
それは基盤のハード面は同じなのに、アプリ面での仕様の違いがあることにより説明できないのと同じような問題であると思います。
科学が扱うのはハードであり、アプリの面に言及できません。
「科学的」なスタンスをとるのであれば、仮説を立て、事実と無矛盾であれば、いったん受け入れるというスタンスであるべきだと思います。
理論は、所詮理論で、現実とは違うと考え、心情的なオカルトを私は嫌いなのですが、理論としてオカルトを一端受け入れ、批判の土壌に挙げることは有意義なことだと思うのです。